月と海

戯言も書けば文学

心の空洞

読書しても音楽しても料理もポケモンも好きなこと何してもやっぱり15%くらい空洞なんだよな。一時的に埋まることもあるけど、空洞が戻ってくる。

 

今まで自分を凝視する機会があまりなかったけど、一旦気付いてしまうとこの穴が気になって気になってしょうがない。

これは何?

この空洞が埋まらないから今を生きようと、生きてこの空洞を埋めたいと思うのか。

 

空洞の正体を考える。ぼんやりと言えるのは「こうじゃない感」。ということは現状に満足出来ない欲なのか。寂しさなのか。

この空洞に隙間なく埋まる何かを充てがおうとするならば。手っ取り早い方法は、“考えること”が出来なくなるほど脳をフル稼働させればいい。

ただしこれを持続的にさせることは難しい。そしてフル稼働していないとき、やはり空洞は戻ってくる。

 

埋めたくなる空洞だが、もはや埋めることを諦めてはどうか。埋めずにそのままにしてはどうか。空洞を感じている“私”は、空洞に向き合い、空洞のことを正面から考えることになる。この虚無の正体は何かと。人間が生命活動を投げ出さないように“欲”をインプットされ、まさにその満たされない“欲”の姿なのではないか。

 

答えはまだ分からない。けど、気持ちいいものでは無い。あまりこの空洞を眺めていると、仄暗い気持ちがじわじわ芽生えてくる。そのたびに慌てて本を開くしピアノを弾くしエプロンをつけるし、とにかく空洞から目を逸らす。

 

得体の知れないこの空洞だが、少し前までこんなものはなかった。そして心当たりが2つある。1つ目は、俯瞰するという行為を認識したため。これまでの人生で俯瞰するという行為をしていたこともあると思う。だがそれは無意識。それを言語化し認識する所までは至らなかったが、人づてに深く考えることとなった。そして冒頭の通り、一度自分を凝視し、空洞に気づいてしまってからはひたすら正体を見ようとしている自分がいる。

 

そして2つ目は、外部接触の過剰な遮断による反動。もしかしたら、自分のやりたい事をやって得る満足感と、他者とのコミュニケーションから得る満足感は別物かもしれない。それゆえ自粛ムードによりほとんど外部と遮断されたことで、その満足感が得られなくなってしまい穴が空いてしまった。今までインドアに振り切った人生だと思っていたけど、知らないうちに他者とのコミュニケーションから得ていた満足感があったのかもしれない。人同士、見えないところで繋がっている糸は案外多いものだから。

 

どっちみち未だ正体不明。これが死ぬまで永遠に続くのだとしたら、、15%の空洞は結構重たい。