月と海

戯言も書けば文学

DEATH 死とは何か:memo②

デカルトの主張、二元論を、シェリー先生が三つの前提から否定していく第四講。ちょっとシェリー先生に異議あり

 

大まかに。

デカルトの主張「我々は、自分の身体が鏡に映っていない所を想像することが出来る。だが机の上にペンが存在しながら、ペンの存在を消す想像は出来ない。従って、想像が出来るという時点で、AとBは論理的に別物である。」

つまり、身体が存在しない自分を想像できる=消えた身体とその状況を観察している心、魂を想像していることになる。ということは、身体と魂は別物であるという主張だ。

 

ここまでは分かった。この主張に対して、シェリー先生は異を唱える。

 

「私は、宵の明星が“存在する”世界と明けの明星が“存在しない”世界を想像することが出来る。デカルトの主張をなぞると、この二物は別物ということになる。だが、両者は呼び名が違うだけで“金星”という同一の惑星である。よってデカルトの主張は破綻している。」

 

このシェリー先生の主張を受けて、思うことがある。

それぞれの例えを比較して主張を論破するには、同じ前提で検証する必要があると思った。

鏡に映らない身体とその状況を観察する魂は同一の時間上で成り立たせることが出来る。一方で、宵の明星は夜、明けの明星は朝であり、時間軸がズレている。

この時間軸をずらすことがOKであれば、机の上のペンが存在しながら存在しないことも想像出来る。今、机の上にはペンが存在しているが、明日の机の上にはペンが存在しないことを想像出来るように。時間をずらば簡単なのでは?と思った。

 

デカルトの主張がこの時間軸のズレをも包括している主張なのかは、より細かく主張の内容を踏まえる必要がある気がした。ほんの一部分だけ切り取って論破するのは案外簡単なように思える。

 

そもそも私が双方の主張に対して履き違えた理解をしているかもしれない。まだ初読、しかも読み途中なので、思考の軌跡として残しておく。

DEATH 死とは何か:memo①

「死んだあとも“私”が生き延びることができるか」を考察する上で、下記2パターンのどちらを信じるかが提示される。

 

・二元論(身体+魂)

・物理主義(身体のみ)

 

この両者の決定的な違いは、魂が存在するかどうか。ここの考察で面白かったのは次のような記述。

 

「この魂の存在、目には見えないものの存在を証明するには、魂が存在することで“最前の説明”がつく事柄を見つけること。」というもの。

つまり、魂が存在しないと物理的に説明がつかない、またはおかしな説明しかつけることが出来ない推論があれば、魂の存在証明になる。という考え方。

たしかに。魂に留まらず、五感で捉えられないものに対してこういったアプローチが出来れば、存在の推論を立てられる。数学でXを求めるみたい。目には見えないものを証明するというのに、とても合理的な考え方だ。

おもしろーい!

心の空洞

読書しても音楽しても料理もポケモンも好きなこと何してもやっぱり15%くらい空洞なんだよな。一時的に埋まることもあるけど、空洞が戻ってくる。

 

今まで自分を凝視する機会があまりなかったけど、一旦気付いてしまうとこの穴が気になって気になってしょうがない。

これは何?

この空洞が埋まらないから今を生きようと、生きてこの空洞を埋めたいと思うのか。

 

空洞の正体を考える。ぼんやりと言えるのは「こうじゃない感」。ということは現状に満足出来ない欲なのか。寂しさなのか。

この空洞に隙間なく埋まる何かを充てがおうとするならば。手っ取り早い方法は、“考えること”が出来なくなるほど脳をフル稼働させればいい。

ただしこれを持続的にさせることは難しい。そしてフル稼働していないとき、やはり空洞は戻ってくる。

 

埋めたくなる空洞だが、もはや埋めることを諦めてはどうか。埋めずにそのままにしてはどうか。空洞を感じている“私”は、空洞に向き合い、空洞のことを正面から考えることになる。この虚無の正体は何かと。人間が生命活動を投げ出さないように“欲”をインプットされ、まさにその満たされない“欲”の姿なのではないか。

 

答えはまだ分からない。けど、気持ちいいものでは無い。あまりこの空洞を眺めていると、仄暗い気持ちがじわじわ芽生えてくる。そのたびに慌てて本を開くしピアノを弾くしエプロンをつけるし、とにかく空洞から目を逸らす。

 

得体の知れないこの空洞だが、少し前までこんなものはなかった。そして心当たりが2つある。1つ目は、俯瞰するという行為を認識したため。これまでの人生で俯瞰するという行為をしていたこともあると思う。だがそれは無意識。それを言語化し認識する所までは至らなかったが、人づてに深く考えることとなった。そして冒頭の通り、一度自分を凝視し、空洞に気づいてしまってからはひたすら正体を見ようとしている自分がいる。

 

そして2つ目は、外部接触の過剰な遮断による反動。もしかしたら、自分のやりたい事をやって得る満足感と、他者とのコミュニケーションから得る満足感は別物かもしれない。それゆえ自粛ムードによりほとんど外部と遮断されたことで、その満足感が得られなくなってしまい穴が空いてしまった。今までインドアに振り切った人生だと思っていたけど、知らないうちに他者とのコミュニケーションから得ていた満足感があったのかもしれない。人同士、見えないところで繋がっている糸は案外多いものだから。

 

どっちみち未だ正体不明。これが死ぬまで永遠に続くのだとしたら、、15%の空洞は結構重たい。

開戦前夜

新しい年が来るとなんで“おめでとう”なんだろう。

一年を安寧に過ごせたことに感謝の気持ちもある。来年も自分のやりたいことをやれるだけやって、未来を切り拓きたいと思う。ただ、年が1年新しくなることにおめでとうなのが分からない、、

と言いつつ、私自身もあけましておめでとうございます、と慣例の挨拶として使うのだけどね。

 

そんな素朴な疑問も、今年は特に思う。年が明けてもおめでたいな〜なんて思えない。今だって速報が鳴った。

“新規感染者数初の4000人越え。”

コロナウイルスの国内感染者数の速報。また最悪な記録が更新された。

 

昨日、ヨーロッパ欧米諸国のコロナとの闘いを記録したNHKの番組を観た。怖かった。他人事ではないと分かっていながらも、より身近な恐怖を感じた。元気だったウイルス感染者が1日1日ごとで容態が急変し、6日も経つと人工呼吸をつけ、7日目以降は喋ることも出来ず、無言のビデオ。そして亡くなってしまった。

すごく怖かった。大切な人がいとも簡単に感染し、瞬く間にその人生が閉じる。

職場、地元、親友の父親、恋人の職場のすぐ近く。もうそこまで迫ってる。

 

2020/2/1、ダイヤモンドプリンセス号の乗客1名がコロナに感染していることが確認されたあの日から10ヶ月が経った。

そして2021年。今年は、あけましておめでとうではなく、第二幕開戦の号令を唱えたい。コロナとの、見えない敵との闘いの。年始のお祝いムードに惑わされて気持ちが緩むことのないよう、肝に銘じたい。

言葉の矛盾

他人と比べられることを嫌がるくせに、気づいたら比べてる自分がいたり、

宇宙のことを考えたら細かいことなんて気にしないとか言っといて、答えの出ないことを頭の中でぐるぐる考えたり、

期待しないするだけ無駄とか言っといて、次のイベントが楽しみだったり何気ない一言で落胆したり、

 

矛盾だらけ。

 

でもふと思う。矛盾は、文字に起こしたり言葉にした瞬間起きる。そもそも矛盾という概念も人間が創り出した。自然界のあらゆる事象は起きている以上、当然ながら〝矛盾〟は無い。

 

社会の中で、組織に所属して仕事をする場合。または1つの物事、概念に対して、複数の人間が関わっている環境にいる場合。その場合は共通認識をより正確に行う必要があるから〝言葉〟を用いてコミュニケーションをとる。そのために〝矛盾〟が生じることもあるし、それを〝矛盾〟だと指摘されても、確かになと思う。

 

ただ私が私を表現するとき、過去と現在での発言が違っていたとしても、矛盾はない。そうなんだから、そう。あるがまま。矛盾に見えてしまうのは、言葉に起こした瞬間、流動的な感情が形となってそこに留まることになるから。共通認識できる概念になった瞬間、比べることができてしまうから。そしてそれは自分以外でも同じこと。

 

心に余裕がある時はそういう目線を保つことができるけど。視野が狭くなってしまう瞬間でも、それを忘れずにいたいね。

体内時計と相対性理論

時間って、天邪鬼。

早く過ぎてと願ってもゆっくりゆっくりしか進まないのに、今から自由時間だ〜何しようかなーと思ってソファでゆっくりしてると、矢のように過ぎる。

 

時間の流れは重力が強いほど遅くなる。

思考にも重力があるんじゃないかな。

重力の強さは質量に比例する。

暇もしくは身が入らない、つまらない時間では雑念が多くなる。

雑念が多い=思考の量が多い。

つまり質量が大きい。

質量の大きさ=重力の大きさ。

つまり雑念が多い=思考の質量が大きい=重力が大きく、その分強いことになる。その強い重力によって時間が遅くなっている。集中したり好きなことをやってるときは雑念が少ないので、その逆になる。

 

なーんて、思考に質量があるならね。思考を量子論で語れるなら面白いだろうな。